2024年6月11日 権現堂公園あじさいまつりなど
地元幸手市の権現堂公園で6月1日から始まっている「あじさいまつり」。10日ほど経過して、ちょうど見頃になってきた。傷んだ花はほとんど見られず、若い元気な花が圧倒的に多い状態。これから数日くらいがもっともいいんじゃなかろうか。
今日はハウスメーカーのAホームのO氏と権現堂を散策した。O氏は権現堂は過去に来たことはあるものの、紫陽花の時期に来るのは初めてだったそうで、たくさんの種類の紫陽花が見られてとても喜んでいた。
こちらは久しぶりにOLYMPUS Pen-Fを持ち出し、40枚ほど撮影した。以前のようにがむしゃらに撮るのではなく、目を引いたものだけを撮るようにしたのだが、光の具合もまずまずで、そこそこ気に入ったものが撮れたと思う。
若い頃のようにひたすら撮りまくるのもいいが、落ち着いて厳選したものだけを撮るのもいいもんだ。今は時間があるから被写体を選ぶ余裕がある。じっくりと眺める時間もある。やはり時間に余裕があるのはありがたい。
年をとってからの孤独は寂しいとかつらいとかいう固定観念を持つ人が多いようだが、本当にそうだろうか。自分が前期高齢者と言われる年齢に近くなってから、そんなことを考えるようになった。
いくら仲が良い友人と言っても、自分自身の気持ちと全て一致するわけではない。となればどこかで妥協したり譲ったりする必要が生じてくる。それをストレスと感じなければいいのだが、積もり積もるとけっこうなストレスに感じる人も多いのではなかろうか。人間関係は全てそういう危険をはらんでいるわけだが、孤独になればそんなストレスとはいっさい縁が無くなる。全てが自分の好きなように行え、全てを自分の判断で決めることができる。究極の自由だ。
自分でソロキャンプをやりだしてから、孤独な状態に自分の身を置くことにも慣れた。話し相手もおらず、一人で過ごしていても、不思議と寂しい気持ちになることはなかった。むしろ自ら望んでその孤独な状態を味わっているのだから、その自由な時間を満喫しようという気持ちのほうが強かった。お腹が空けば食べ、眠くなったら寝て、目が覚めれば起きる。目覚まし時計は基本的に必要ない。そんなキャンプを続けていると、むしろ孤独のほうがいいんじゃないかと真剣に思うようになる。
家族や身内、恋人や友人たちと会えなかったら寂しい。そう思うのは今までが幸せな人生だったからだろう。ぼくもそういう人たちと会って話すことは嫌いではないが、ソロキャンプをしているときほど幸福な気持ちになることはなかった。家を出てから帰宅するまで、すべてが自由なのだ。スーパーで買い出しをする際も、自分の好きなその時に食べたい食材だけを選べばいいし、その時に飲みたい酒も自由に選ぶことができる。選択に何のストレスもない。そんな状態がしばらく続く。なんと幸福な時間だろうか。これはやったことがない人には理解してもらえないだろうが、ソロキャンプの良さは究極の自由という点にあると思っている。
この先、何年ソロキャンプができるかはわからない。身体が弱って、一人でクルマを運転して出かけることができなくなるかも知れない。だが建て替える予定の自宅には小さいながら庭を設け、芝生も植える予定で、つまり狭小だが自宅にキャンプサイトを作る予定だ。老いたら自宅の庭でキャンプをしたいのだ。友人たちが来れば庭でももてなすことができるし、キャンプ体験もしてもらえる。もちろん屋内の方が良いなら自分の部屋に来てもらうだけのことで、無理強いするわけでもない。もちろん外で過ごすのにちょうどいい季節だけの話で、暑いのや寒いのを我慢するつもりなど、さらさらない。
その気になれば毎日でも庭でキャンプができる。テントやタープを張りっぱなしにすることだって可能だ。常設テントなら別室としても使える。自室以外にも、好きに過ごせる場所ができるのだ。別荘みたいなものともいえる。それって素敵じゃないか。
現状の予定では、狭いとはいえソロテントなら3張り、中型テントなら2張りくらいはおけるスペースが確保できるかなと考えているから、ソロテントにタープの組み合わせでも2張りくらいはいけるだろう。これなら充分に使い勝手がある。考えるとけっこう楽しいぞ。