なぜ国産ギターを見直したのか

2018年12月12日

ぼくが十代の頃は、とにかくMartinのギターが欲しくてたまらなかったの一言なのだけど、とてもじゃないが買える価格ではありませんでした。具体的に言うとぼくがバイトをしてやっと買ったギターの中で一番高級だったのが今でも持っているYAMAHAのFG-600Jでした。定価が6万円のところを春日部のYAMAHAの音楽教室に長く在庫となっていたのを3割引にしてもらったから買えたのでした。つまりは¥42,000。これだって当時の高校生としてはかなり豪勢な楽器でした。一方肝心のMartinはと言うと、ぼくはいろいろ試奏させてもらった結果D-28がもっとも気に入って、次にD-18でしたが、当時の定価はD-28が¥320,000でした。D-18はそれよりもほんの少しだけ安かったけれど、どっちにしても高価過ぎて話になりませんでした。

それでは当時のYAMAHA以外の国産ギターたちはどうだったのかというと、そこそこ良い楽器もたくさんあったとは思いますが、それらは見た目だけはMartinにそっくりでも鳴らしてみるとまるっきり別の音色でしかなく、ブルーグラス等のレコードを幼い頃から聞かされてMartinの音色を刷り込まれているぼくとしてはとうてい我慢できるものではなかったのです。だけど買えない、けどギターは弾きたい。その妥協点としてYAMAHAを当時は選んだというわけです。

したがって成人して就職するのを待って念願のMartinを購入し、国産ギターのことなどはほとんど頭から消えている時期が長く続きましたが、初老と言える現在に至ってようやく当時の国産ギターが光って見えるようになってきたのです。

その理由はひとえに経年による熟成と材の良さでした。当時の国産ギターたちは今と比較すると素晴らしく良い材を使っていたので、今となれば状態の良いものはかなり良く鳴る個体になっていることも多いのです。もちろんその音色は外観がMartinコピーであってもMartinには似ていませんが、それはそれでいいじゃないかと思えるようにもなってきました。単に国産ヴィンテージとしてその味を愉しめばいいじゃないかと。昔はMartinやGibsonが苦労して築き上げてきたデザインをパクって商売しているということ自体を嫌悪しており、誰が買うもんかとさえ思っていたのに、変われば変わるものです。歳をとって融通が利くようになったのかもですね。

逆に、今年仕入れたMountainブランドの3本などは見た目こそGuildコピーとGibsonコピーなのに鳴らしてみるとMartinに一番近いという面白さがあります。内部構造がほぼMartinのそれだからですが、これはこれでありではないかと思えるようになったのは人間が丸くなったからでしょうか。

単に音楽を楽しむというためならば別にMartinでなくてもいい。もちろんMartinを弾けば故郷へ帰ったように懐かしくいい音だなあと痛感するのですが、違う音色でも質さえ良ければそれでいいじゃないかと割り切れるようになったことで、今までよりも楽しさが広がったように思います。

もう一つ、K.Yairiについても書いておきたいのですが、それはまた改めてということで。


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